レーニン


私たちの開店への、最初の幸運はある腕のいいシェフに出会えたことだった。
アメリカだけでなく、ヨーロッパでも店の立ち上げに関わった経験がある日本人で、店のメニューの大枠を作ってくれ、ソースやドレッシング、そしてカリフォルニアスタイルのオスシのデザインを抜群の美しいセンスで 店に定着させてくれた。彼のプロフェッショナルとしての挑戦、美的感覚、私たちが持っていなかった職人気質を担ってくれた。

「ローマは一日にして成りませんからね」

「システムをきちんと作って、nalcoさんは一日も早く店から離れることを考えてください」

「キッチンとダイニングは セッセッセ、のヨイヨイヨイ、の息でやり合っていくんですよ」

「レストランはいつも忙しくなくてはいけません」

「私たちのミスはすべてお客さんにまわってしまう、ということをまず考えて対処していきましょう」

仕事中は厳しいけれど、一日が終わるといつもの優しい彼に戻って 私を慰めてくれた。
彼の言葉は、彼の厳しい体験に裏打ちされていて、どんなときにも深く心に沁み入ったし、それらは彼の語録として、私の当時の日記に連なっている。
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# by s_nalco | 2010-09-20 15:13 | スタートに関わったスタッフ

スティーブ


開店4週間後の休業中に、West Companyが私たちのために見つけてきてくれたのは、
50を過ぎた、ダンディな紳士だった。
実際びっくりした。
どうしてこんな素敵な人がうちに?
(詳しくは・・・・こちらを

彼はWest Companyの担当者が言ってくれたように、私たちの「役に立ちたい」と本当に思ってくれている不思議な人だった。

「何をすればいいんだい?必要なことなら何でもやるよ」
そう言ってくれた。
給料も店が軌道にのるまではそんなに要らない、と。
実際のところ彼はWest Companyの社長の旦那様だった。West Company は会社をあげてここまで私たちに尽くしてくれる気になっていたのか???

ひとりひとりの持つエネルギーって本当にすごい。うちのような小さな店では顕著に表れる。ともかく彼が来てくれたお陰で店は確実にグレードアップした。

私は彼に見合った報酬をいつかきちんと払えるようになりたい、と強く願った。
その時にはとうてい無理で、彼の善意に頼るしかなかったけれど、会社として、それ相当のものが払えるというのは大きな成長の証でもある。私は宇宙はすべての人に公平だと信じている。だから宇宙がその人に見合った報酬を渡せるだけの 会社としての器を大きくしていきたい、と思ったのだった。

そして、彼は7年経った今も私たちと共にいてくれる。

彼の存在は、店をしっかりとこのコミュニティに立たせてくれた。この町で育ち顔も広い彼がいるだけで、私たちの店を信頼してくれる人もいる。小さな町での商売には欠かせないエッセンスを彼が持って来てくれた。しかも彼の 謙虚な、細かい心配りのあるホスピタリティ、そしてワインカントリーと呼ばれるこの地域ならではのローカルワインへの思い入れ。メニューにはスティーブのリスト、というワインのセレクションがある。

「どんなことでも、君たちがやろうと決めたことは応援するよ」、
この7年間 彼はそのスタンスをくずすことなく、影となり、日向となり私たちを支えてくれた。
私たちは彼のロイヤリティにどこまで応えられるだろう?それが大きなモチベーションのひとつになっていることは言うまでもない。
休みの土、日はファーマーズマーケット、結婚式、様々なイベントで 仲間と一緒に作る音楽でベースを弾いているミュージシャンでもある。彼と知り合えたことは公私ともに私たちへの大きなギフトとなった。
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# by s_nalco | 2010-09-20 14:46 | スタートに関わったスタッフ

食のカルチャーショック


アメリカでのパブリックな日本食デビューは17年前。

娘の通う園で、食事の担当になったとき。
子供たちの食べやすいヌードルを、と思った。
腕をふるって鰹節のだしを利かせたうどん。
なのに・・・
「FISHY….」(魚くさい)
殆ど全員が(先生も含めて!)食べることができず、大量の売れ残りをトイレへ流すはめに・・・。

喜んでお代わりしていたのは、わが子と母親が日本人のもうひとりの子供だけ。
それ以来、コアな日本食を外国人に出すのは トラウマになってしまった。

そんなことも、私がレストランを出すことに反対した理由の 小さなひとつだったかも。
自分が美味しいと思ったものが、人には受け入れてもらえない、という可能性が異国では多々、起こり得ることなのだ。

それは好きとか、嫌いの枠を超えた体験。

アメリカに来たころ、メキシカンフードには付き物のリフライド・ビーンと、独特のソースの存在に遭遇した。一口で拒否反応が出て、レストランを後にした。
出された食事をそのまま残したのは自分にとって初めての経験だった。

いかにも繁盛しているらしいレストランで 夫と注文した2、3の皿、どれも口に出来なかった。
「何で!?」
という表情のウエイターに 相手のせいではなく、私が食べられないだけなのだ、ということを説明する術もなく(その頃、英語は殆ど話せなかった)、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

こうしてはじめて私は世の中に 他人は美味しく食べているもので、劇的なまでに、自分がどうしても口に出来ないものがあるという体験をした。

そしてその数年後、私は鰹だしのうどんを幼稚園児にふるまって、彼らに食の、カルチャーショックを与えてしまうことになるのだ。
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# by S_Nalco | 2010-08-29 16:08 | メニューの周辺

予感 1


 宇宙は、生きていくに必要なものは与えてくれる。

 電気も水道も通ってない人里離れた山の中で 一年間暮らしてみてわかった。

 大好きな山の暮らしから離れたのは8歳だった長女が 「学校に行ってみたい、友達が欲しい」と願ったから。

 泉から引いた水、ソーラーパネルの太陽光、ろうそくとランプ。薪。
小さな畑の野菜、そのほかのもの、食べるものを買うだけのささやかな仕事は いつもタイミング良くやってきた。夫が山から下りて、大工をして稼いでくれた。

 物質的には最低限の暮らしでも、時間と空間は豊饒だった。
 頭上を孤を描いて沈む太陽、満天の星空、何処までも続く緑と木々。
 そして家族。

 薪ストーブと七輪での食事の支度や、手洗いの洗濯、風呂たき、子供の世話で日が暮れた。
 一家族だけ、隣人が丘を越えたところに住んでいた。
 あの頃のことを 今、成長した子供たちは、
 「ほんとにヒッピーな暮らしだった」と笑う。

 そんな山暮らしの日常の中、ある日、日本からお客が来た。
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# by S_Nalco | 2010-08-29 16:06 | 予感

予感 2


 お客は 夫のいとこの友人で 私たちとは一面識もなかった。
ただ、自分の転職の転機にアメリカに来てみたかったのだという。私たちはすぐにうちとけて、
彼がいっしょに グランドキャニオンやヨセミテ公園、といったカリフォルニア近辺の観光をしよう、という提案にのった。

 私たちに日々の生活以外の余分な蓄えはなかったけれど、バンにキッチン用品を積み、寝袋を積み、出かけた。

 食事はキャンプ場で作り、夜は車の中で眠った。 
子供たちは大喜びで、どんな状況でも、みんな旅を楽しんでいた。

 たとえそれが気温が零下の車の中でも・・・。
グランドキャニオンでのその一夜は、私にあるインスピレーションを与えてくれた。

 夜になると凍えるくらい寒くて、入れた熱いお茶もしばらくすると氷の膜がはった。
私は子供たちにできるだけの寝袋をかけてやり眠りについたが 寒くて何度も目がさめた。やっと朝がきて、見ると、車の中の缶ジュースの残りが完全に凍っていた。

 「私ら、冷凍庫の中で眠ったんだね!」
鼻の頭を赤くして、白い息を吐きながら興奮している子供たち。夕べは暖かく眠れたと言う笑顔に慰められたけれど、心の中では何か腑に落ちないものがあった。

 寒い夜に宿をとって泊まることを選択できない、という不自由さを味わっていた。
そして、宇宙は 必要ならば、私たちを最低限生かしてはくれ、眠る場所を与えてはくれても、それが車の中であろうと、洒落たホテルであろうと、知ったことではないんだ、とふと思った。

 もし、どこで、どんなふうに眠りたい、と選択の幅を広げたいなら、その可能性を広げていくのは、私の仕事なんだ、と。
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# by S_Nalco | 2010-08-29 16:06 | 予感