1 アメリカでのパブリックな日本食デビューは17年前。 娘の通う園で、食事の担当になったとき。 子供たちの食べやすいヌードルを、と思った。 腕をふるって鰹節のだしを利かせたうどん。 なのに・・・ 「FISHY….」(魚くさい) 殆ど全員が(先生も含めて!)食べることができず、大量の売れ残りをトイレへ流すはめに・・・。 喜んでお代わりしていたのは、わが子と母親が日本人のもうひとりの子供だけ。 それ以来、コアな日本食を外国人に出すのは トラウマになってしまった。 そんなことも、私がレストランを出すことに反対した理由の 小さなひとつだったかも。 自分が美味しいと思ったものが、人には受け入れてもらえない、という可能性が異国では多々、起こり得ることなのだ。 それは好きとか、嫌いの枠を超えた体験。 アメリカに来たころ、メキシカンフードには付き物のリフライド・ビーンと、独特のソースの存在に遭遇した。一口で拒否反応が出て、レストランを後にした。 出された食事をそのまま残したのは自分にとって初めての経験だった。 いかにも繁盛しているらしいレストランで 夫と注文した2、3の皿、どれも口に出来なかった。 「何で!?」 という表情のウエイターに 相手のせいではなく、私が食べられないだけなのだ、ということを説明する術もなく(その頃、英語は殆ど話せなかった)、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 こうしてはじめて私は世の中に 他人は美味しく食べているもので、劇的なまでに、自分がどうしても口に出来ないものがあるという体験をした。 そしてその数年後、私は鰹だしのうどんを幼稚園児にふるまって、彼らに食の、カルチャーショックを与えてしまうことになるのだ。 ■
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by S_Nalco
| 2010-08-29 16:08
| メニューの周辺
宇宙は、生きていくに必要なものは与えてくれる。 電気も水道も通ってない人里離れた山の中で 一年間暮らしてみてわかった。 大好きな山の暮らしから離れたのは8歳だった長女が 「学校に行ってみたい、友達が欲しい」と願ったから。 泉から引いた水、ソーラーパネルの太陽光、ろうそくとランプ。薪。 小さな畑の野菜、そのほかのもの、食べるものを買うだけのささやかな仕事は いつもタイミング良くやってきた。夫が山から下りて、大工をして稼いでくれた。 物質的には最低限の暮らしでも、時間と空間は豊饒だった。 頭上を孤を描いて沈む太陽、満天の星空、何処までも続く緑と木々。 そして家族。 薪ストーブと七輪での食事の支度や、手洗いの洗濯、風呂たき、子供の世話で日が暮れた。 一家族だけ、隣人が丘を越えたところに住んでいた。 あの頃のことを 今、成長した子供たちは、 「ほんとにヒッピーな暮らしだった」と笑う。 そんな山暮らしの日常の中、ある日、日本からお客が来た。 ■
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by S_Nalco
| 2010-08-29 16:06
| 予感
お客は 夫のいとこの友人で 私たちとは一面識もなかった。 ただ、自分の転職の転機にアメリカに来てみたかったのだという。私たちはすぐにうちとけて、 彼がいっしょに グランドキャニオンやヨセミテ公園、といったカリフォルニア近辺の観光をしよう、という提案にのった。 私たちに日々の生活以外の余分な蓄えはなかったけれど、バンにキッチン用品を積み、寝袋を積み、出かけた。 食事はキャンプ場で作り、夜は車の中で眠った。 子供たちは大喜びで、どんな状況でも、みんな旅を楽しんでいた。 たとえそれが気温が零下の車の中でも・・・。 グランドキャニオンでのその一夜は、私にあるインスピレーションを与えてくれた。 夜になると凍えるくらい寒くて、入れた熱いお茶もしばらくすると氷の膜がはった。 私は子供たちにできるだけの寝袋をかけてやり眠りについたが 寒くて何度も目がさめた。やっと朝がきて、見ると、車の中の缶ジュースの残りが完全に凍っていた。 「私ら、冷凍庫の中で眠ったんだね!」 鼻の頭を赤くして、白い息を吐きながら興奮している子供たち。夕べは暖かく眠れたと言う笑顔に慰められたけれど、心の中では何か腑に落ちないものがあった。 寒い夜に宿をとって泊まることを選択できない、という不自由さを味わっていた。 そして、宇宙は 必要ならば、私たちを最低限生かしてはくれ、眠る場所を与えてはくれても、それが車の中であろうと、洒落たホテルであろうと、知ったことではないんだ、とふと思った。 もし、どこで、どんなふうに眠りたい、と選択の幅を広げたいなら、その可能性を広げていくのは、私の仕事なんだ、と。 ■
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by S_Nalco
| 2010-08-29 16:06
| 予感
どうしてこんなところに来たの? 地元の人によく聞かれる質問。 そんな小さな田舎町に7年前、日本食レストランを開いた。 「レストラン、やろうよ!」 夫に言われたときは、断固反対。 「家族そろってごはんが食べられなくなるのは いや。」 私の切り札を、彼はこともなげにこう返した。 「町の人みんなが家族、って思えばいいじゃん」。 ・・・・・・。 夫からまっすぐに見つめられて、にっこりこんなふうに言われたら、どんなふうに答えますか? 私は、一瞬戸惑った。ひるんだ。 彼のいつもの、呆れるほどのまっすぐさ。 そして彼が大きい絵を見れば見るほどに 私は目の前のものを見る。 「いいよ、 やればいいよ、 でも、私はやらないよ、私は子供といる」 結婚して14年。 3人の子供たちとの暮らしは平和で、私はずっと専業主婦。 お金がなくても自由と平和があるさ、 そんなヒッピー系の人たちも暮らす、ぶどう畑に囲まれた町で 私たち家族もそんなだった。 お金よりも時間、 先のことよりも今、 樫の木に囲まれた丘の上で、落ち葉を踏む音を聞きながら散歩。 それがいちばんで、 5人家族にしては びっくりするくらい小さい家も、友人からもらった70年代の車も、スリフトストアーで調達してくる服も、ぜんぜん気にならなかった。 自分の暮らしが大好きだった。 ■
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by S_Nalco
| 2010-08-29 16:05
| はじまり
はじまり 2
お金より家族で過ごす時間にバリューを置いたライフスタイルだったので、本人にはそれほど自覚はなかったけれど、他の人から見たらうちは一般的には貧乏だった。 3人のこどもたちはその頃、12歳、7歳、4歳。 子供のペースにあわせた のんびりした田舎暮らしができるのが何よりもありがたかった。 不便なことと言ったら、買い物に行って、持っていたお金より買いすぎて、返しにいかなければならなかったこと。暗算には自信があったけれど、TAXを計算し忘れたりすることもあって、けれど、そのぶん毎回の買い物はゲーム感覚で、ぴったりはまったときにはちょっとした自慢だった。 けれど、ある日、子供が歯医者に行かなければならないことになった。 アメリカの医療費は高くて、保険もしかり。私は市の生活相談所に行った。娘が無料で歯の治療を受けられるように、書類を書き終わると そこの人はさっと数字をはじき出して言った。 「家族全員に市の保険を適用しますよ、それから月々の生活保護のお金、食費もね。」 私はびっくりした。 好きでやってる自分たちの暮らしである。そこまで面倒みてもらう必要なんてない。 それを伝えると、女性は「いえいえ、受け取ってもらいます。そのかわり、あなたには生活保護がそのうち必要なくなるように、これからクラスを受けてもらうんです。」 それはとても、とても興味深い提案だった。 貧富の差の激しいこの世界、こんな小さな町にもホームレスはいる。貧しい、シングルマザーがいる。けれど生活保護を受けることによって、お金だけでなく、自立できる支援もしているというシステムがあるという、そのシステムに私は興味を持った。 私はまず、市の雇用窓口でカウンセラーを受けた。 これからの生活設計、自分が何をしたいのか、そのために何が必要なのか、ということについて。 ファーストステップは、明確な目標設定。 当時はまだレストランを開く準備をしていたころ。夫は暮らしを支えるだけのお金を稼いだあとは、レストランをオープンするための準備を自分なりに進めていた。 それで私はとっさに、夫が始めようとしている レストランの経理を手伝うことになると思う、と言った。 すると、2つの機関を紹介された。ひとつはコンピューターの学校。もうひとつはスモール・ビジネスを支援するノン・プロフィットの会社、WEST COMPANY。 地元にある、市民にも開かれた大学でも何かクラスを取る必要があったので、ESL(English as second language)のクラスを取ることにした。それらすべて、私が生活保護を受けるための必須条件だった。 それは要するに、ゴールまでの道のりに 自分が何をすべきかの大まかなMAP作り。 すべての授業料と、その間のチャイルド・ケアーは全額無料。しかもそこに行き来するためのガソリン代までもが支給された。 クラスといっても週に何日か、しかもそれぞれが数時間だったので大変、というよりも面白かった。そうするうちに、私の内面で、レストランをスタートすることへの心構えが自然にできつつあった。授業に出ることで、何よりも大きかったのは人との繋がりだった。私の行動範囲が広がるにつれて、仕事について話せる知り合いが多くなり、私がこれから夫とやろうとしていることを 応援してくれるエネルギーが、ふくらんでいくのを感じた。 ![]() それはお金では決して買うことのできない、パワフルなサポートだった。 ■
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by S_Nalco
| 2010-08-29 16:04
| はじまり
はじまり 3
さて、生活保護を頂くことになって、物事のスピードが加速されるようになった。 生活の為の必要が減った分、夫が以前よりビジネスの準備にかける時間が増えたのだ。 それは大きな一歩だった。 私たちは山で暮らし始めてからそれまでの数年間は税金を申告したことがなかった。 入ってくるものが少なかったので、ことさらその必要も感じなかったのだ。 けれど、あくまでもそれはこちらの言い分。 こうしてカリフォルニア州からお金をもらう以上、自分たちも義務を果たさなければ、とその年は税金を申告することにした。 そうすると案の定、払うものはまったくなかった。それどころか子供が3人いるおかげで またしても州から貰うものがあることがわかった。しかも数年前までさかのぼって請求できるとかで、私たちのもとには まとまったお金が入ってきたのだ。 それがビジネスのための資金の一部になったのは言うまでもない。 また WEST COMPANY でビジネスセミナーを受け、ビジネスプラン、キャッシュフロープランを作り、ローンの申請もした。 50万円、10%の金利だったけれど、私たちのアメリカでの初めてのローンだった。 それまで、私たちは預金もなかったけれど、借金もなかった。カードを持つ、というアイデアも このカード大国のアメリカにおいても何故か持っていなかった。 社会人として、「カードをもち、それを使い、月々の支払いをしていく」ことで 信用という記録を残していく、ということをまったくしてこなかったのだ。 記録がないので、今さらカードの申請をしようとしても却下されるばかりだった。 その記録のはじめのとっかかりを作ってくれたのが、このWEST COMPANYのローンだった。 思えば、生活保護を受けている、英語力も怪しい日本人カップルに 何の担保もないのに 50万円とはいえ、よく貸してくれたものだと思う。 子供が歯医者に行く必要があった、たったそれだけのことが、まるですごろくを進んでいくかのように、その気のなかった妻に ビジネスへの初歩のスキルを身につけさせ、多くの人脈を得、資金の一部を得た。 そのスタートは、夫の「レストランをやる」と決めた、情熱だったのだと思う。 ![]() ■
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by S_Nalco
| 2010-08-29 16:03
| はじまり
10月終わりのハローウィーンから始まって、11月の感謝祭、そしてクリスマス、ニューイヤーとビッグイベントが続いた後、一息つくように、1月、2月のビジネスは、たいていスローなペースになるのが1年の流れ。 だからこの時期に2週間くらいの休みをまとめて店ごと取るレストランも少なくない。 そんなある年の冬、例年より暇な日が多く、このままいけばどうなるのだろう、と私は不安な気持ちから様々なプランを練り、アイデアを出し、考えることに時間を費やしていた。 すると夫が嬉しそうに提案してきた。 「誰かの本には 風邪をひいたときには いかにも風邪をひいたような様子をしたらいけない、そういうときこそ焼き肉を食べに行け、って書いてあった。どうだろう、ためしに家族でスキー旅行なんかに行ってみたら。普通、こういうときって人は眉間にしわ寄せて無駄な時間を過ごすもので、家族旅行なんて思いつかないだろ?」 そりゃあ、思いつかないだろうね、きっと、と私。 彼はときどきこんなシリアスな場面で突拍子もないことを言い出す。 そしてあまりの非常識さに私が笑い出すものだから、調子にのった彼が一気に私をその気にさせる。笑わせてなんぼ、というのは本当なのだ。 さて、2泊3日の半信半疑で始まったスキー旅行、行ってしまえばこっちのもの、といわんばかりに子供たちと楽しんで戻って来た。店はわが道をただ淡々と進むように 日々、過ぎていた。こんなとき、私たちの愚かな思惑というものを考える。ものごとがすべてラッキーに進んだのは 果たして私たちがスキー旅行に行ったからなのか、それとも・・・!? ■
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by S_Nalco
| 2010-08-13 09:28
| 休日
はじまり 4
それでも歩みはゆっくりだった。 レストランになる店舗を借りて、およそ2年後、店はできた。 2年のあいだ、夫が大工の仕事をしていた時に知り合った友人達に手伝ってもらいながら、以前はオフィスだったという殺風景な、何もない部屋を オープンキッチンで7席のカウンター席と、パティオも合わせて、11のテーブルのある店に仕上げた。 カウンターに使う木は、以前住んでいた山の、火事で倒れた樫の木を運んで来た。 「いったいいつオープンするの?」 道行く人が いつまで経っても工事中の室内に入って来ては聞く。 あるとき資金がなくなって、それ以上進めなくなったときがあった。 するとそれをどこからか聞いてきた、息子の友達の両親がお金を貸してくれると言ってくれた。 彼らとはそれほど近かったわけではない。けれど、息子の小学校の行事や、資金集めのイベントで手伝ううち、私たちを信頼してくれるようになったらしい。 小さな歩みを進めながら、2年後にやっとオープンしたときには 「諦めないで続けていれば、いつか、できるものなんだね」 という褒め言葉とも取れない賛辞を沢山の人に頂いた。 この道のりを時々手伝ってくれていた友人の一人も 私たちのオープンで元気を得て彼のビジネスを立ち上げた。 ゆっくり進むのも悪くない。 お金、労力、情報、支援の気持ち、人々がそれら自分にできる様々なものを運んできてくれて、 何かを作り上げたあとには、友情や信頼がすでに根を下していた。 ゆっくり進むことで見えた優しい風景がたくさんあった。 ![]() 私たちもいつか、夢を追いかける人の 支援のひとつの手になろう、これまでしてもらった以上のことを返していけるよう、成長しよう、そんな堅い決心も、ゆっくり進んできたからこそ、だったかもしれない。 ■
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by S_Nalco
| 2010-08-06 17:46
| はじまり
1 |
北カリフォルニアでのお気楽ヒッピー暮らしから、2003年、広島風お好み焼きとおスシをメインにした日本食レストランを開きました。3年後には店のお客様10組から支援を受けて、店の建物を購入、テイク・アウトの店をさらにオープン。町角の小さな「お好み焼き屋」をと思っていたのが、現在店はスタッフ30人のファミリーに。
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