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はじまり 1


どうしてこんなところに来たの?

地元の人によく聞かれる質問。
そんな小さな田舎町に7年前、日本食レストランを開いた。

「レストラン、やろうよ!」
夫に言われたときは、断固反対。
「家族そろってごはんが食べられなくなるのは いや。」

私の切り札を、彼はこともなげにこう返した。

「町の人みんなが家族、って思えばいいじゃん」。

・・・・・・。 

夫からまっすぐに見つめられて、にっこりこんなふうに言われたら、どんなふうに答えますか?
 
私は、一瞬戸惑った。ひるんだ。
彼のいつもの、呆れるほどのまっすぐさ。
そして彼が大きい絵を見れば見るほどに 私は目の前のものを見る。

「いいよ、
 やればいいよ、
 でも、私はやらないよ、私は子供といる」

 結婚して14年。
3人の子供たちとの暮らしは平和で、私はずっと専業主婦。
お金がなくても自由と平和があるさ、
そんなヒッピー系の人たちも暮らす、ぶどう畑に囲まれた町で 私たち家族もそんなだった。

 お金よりも時間、

 先のことよりも今、

 樫の木に囲まれた丘の上で、落ち葉を踏む音を聞きながら散歩。

 それがいちばんで、
 5人家族にしては びっくりするくらい小さい家も、友人からもらった70年代の車も、スリフトストアーで調達してくる服も、ぜんぜん気にならなかった。
 
 自分の暮らしが大好きだった。
# by S_Nalco | 2010-08-29 16:05 | はじまり

生活保護

はじまり 2

お金より家族で過ごす時間にバリューを置いたライフスタイルだったので、本人にはそれほど自覚はなかったけれど、他の人から見たらうちは一般的には貧乏だった。
3人のこどもたちはその頃、12歳、7歳、4歳。
子供のペースにあわせた のんびりした田舎暮らしができるのが何よりもありがたかった。

不便なことと言ったら、買い物に行って、持っていたお金より買いすぎて、返しにいかなければならなかったこと。暗算には自信があったけれど、TAXを計算し忘れたりすることもあって、けれど、そのぶん毎回の買い物はゲーム感覚で、ぴったりはまったときにはちょっとした自慢だった。

けれど、ある日、子供が歯医者に行かなければならないことになった。
アメリカの医療費は高くて、保険もしかり。私は市の生活相談所に行った。娘が無料で歯の治療を受けられるように、書類を書き終わると そこの人はさっと数字をはじき出して言った。
「家族全員に市の保険を適用しますよ、それから月々の生活保護のお金、食費もね。」
私はびっくりした。
好きでやってる自分たちの暮らしである。そこまで面倒みてもらう必要なんてない。
それを伝えると、女性は「いえいえ、受け取ってもらいます。そのかわり、あなたには生活保護がそのうち必要なくなるように、これからクラスを受けてもらうんです。」
それはとても、とても興味深い提案だった。

貧富の差の激しいこの世界、こんな小さな町にもホームレスはいる。貧しい、シングルマザーがいる。けれど生活保護を受けることによって、お金だけでなく、自立できる支援もしているというシステムがあるという、そのシステムに私は興味を持った。

私はまず、市の雇用窓口でカウンセラーを受けた。
これからの生活設計、自分が何をしたいのか、そのために何が必要なのか、ということについて。
ファーストステップは、明確な目標設定。

当時はまだレストランを開く準備をしていたころ。夫は暮らしを支えるだけのお金を稼いだあとは、レストランをオープンするための準備を自分なりに進めていた。

それで私はとっさに、夫が始めようとしている レストランの経理を手伝うことになると思う、と言った。
すると、2つの機関を紹介された。ひとつはコンピューターの学校。もうひとつはスモール・ビジネスを支援するノン・プロフィットの会社、WEST COMPANY。
地元にある、市民にも開かれた大学でも何かクラスを取る必要があったので、ESL(English as second language)のクラスを取ることにした。それらすべて、私が生活保護を受けるための必須条件だった。
それは要するに、ゴールまでの道のりに 自分が何をすべきかの大まかなMAP作り。
すべての授業料と、その間のチャイルド・ケアーは全額無料。しかもそこに行き来するためのガソリン代までもが支給された。

クラスといっても週に何日か、しかもそれぞれが数時間だったので大変、というよりも面白かった。そうするうちに、私の内面で、レストランをスタートすることへの心構えが自然にできつつあった。授業に出ることで、何よりも大きかったのは人との繋がりだった。私の行動範囲が広がるにつれて、仕事について話せる知り合いが多くなり、私がこれから夫とやろうとしていることを 応援してくれるエネルギーが、ふくらんでいくのを感じた。
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それはお金では決して買うことのできない、パワフルなサポートだった。
# by S_Nalco | 2010-08-29 16:04 | はじまり

目標への情熱

はじまり 3

さて、生活保護を頂くことになって、物事のスピードが加速されるようになった。
生活の為の必要が減った分、夫が以前よりビジネスの準備にかける時間が増えたのだ。
それは大きな一歩だった。

私たちは山で暮らし始めてからそれまでの数年間は税金を申告したことがなかった。
入ってくるものが少なかったので、ことさらその必要も感じなかったのだ。
けれど、あくまでもそれはこちらの言い分。
こうしてカリフォルニア州からお金をもらう以上、自分たちも義務を果たさなければ、とその年は税金を申告することにした。
そうすると案の定、払うものはまったくなかった。それどころか子供が3人いるおかげで またしても州から貰うものがあることがわかった。しかも数年前までさかのぼって請求できるとかで、私たちのもとには まとまったお金が入ってきたのだ。
それがビジネスのための資金の一部になったのは言うまでもない。

また WEST COMPANY でビジネスセミナーを受け、ビジネスプラン、キャッシュフロープランを作り、ローンの申請もした。
50万円、10%の金利だったけれど、私たちのアメリカでの初めてのローンだった。

それまで、私たちは預金もなかったけれど、借金もなかった。カードを持つ、というアイデアも このカード大国のアメリカにおいても何故か持っていなかった。

社会人として、「カードをもち、それを使い、月々の支払いをしていく」ことで 信用という記録を残していく、ということをまったくしてこなかったのだ。

記録がないので、今さらカードの申請をしようとしても却下されるばかりだった。
その記録のはじめのとっかかりを作ってくれたのが、このWEST COMPANYのローンだった。
思えば、生活保護を受けている、英語力も怪しい日本人カップルに 何の担保もないのに 50万円とはいえ、よく貸してくれたものだと思う。

子供が歯医者に行く必要があった、たったそれだけのことが、まるですごろくを進んでいくかのように、その気のなかった妻に ビジネスへの初歩のスキルを身につけさせ、多くの人脈を得、資金の一部を得た。

そのスタートは、夫の「レストランをやる」と決めた、情熱だったのだと思う。


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# by S_Nalco | 2010-08-29 16:03 | はじまり

休日のとり方



10月終わりのハローウィーンから始まって、11月の感謝祭、そしてクリスマス、ニューイヤーとビッグイベントが続いた後、一息つくように、1月、2月のビジネスは、たいていスローなペースになるのが1年の流れ。
だからこの時期に2週間くらいの休みをまとめて店ごと取るレストランも少なくない。
そんなある年の冬、例年より暇な日が多く、このままいけばどうなるのだろう、と私は不安な気持ちから様々なプランを練り、アイデアを出し、考えることに時間を費やしていた。

すると夫が嬉しそうに提案してきた。

「誰かの本には 風邪をひいたときには いかにも風邪をひいたような様子をしたらいけない、そういうときこそ焼き肉を食べに行け、って書いてあった。どうだろう、ためしに家族でスキー旅行なんかに行ってみたら。普通、こういうときって人は眉間にしわ寄せて無駄な時間を過ごすもので、家族旅行なんて思いつかないだろ?」

そりゃあ、思いつかないだろうね、きっと、と私。

彼はときどきこんなシリアスな場面で突拍子もないことを言い出す。

そしてあまりの非常識さに私が笑い出すものだから、調子にのった彼が一気に私をその気にさせる。笑わせてなんぼ、というのは本当なのだ。

さて、2泊3日の半信半疑で始まったスキー旅行、行ってしまえばこっちのもの、といわんばかりに子供たちと楽しんで戻って来た。店はわが道をただ淡々と進むように 日々、過ぎていた。こんなとき、私たちの愚かな思惑というものを考える。ものごとがすべてラッキーに進んだのは 果たして私たちがスキー旅行に行ったからなのか、それとも・・・!?
# by S_Nalco | 2010-08-13 09:28 | 休日

ゆっくり進む

はじまり 4


それでも歩みはゆっくりだった。

レストランになる店舗を借りて、およそ2年後、店はできた。

2年のあいだ、夫が大工の仕事をしていた時に知り合った友人達に手伝ってもらいながら、以前はオフィスだったという殺風景な、何もない部屋を オープンキッチンで7席のカウンター席と、パティオも合わせて、11のテーブルのある店に仕上げた。
カウンターに使う木は、以前住んでいた山の、火事で倒れた樫の木を運んで来た。

「いったいいつオープンするの?」

道行く人が いつまで経っても工事中の室内に入って来ては聞く。

あるとき資金がなくなって、それ以上進めなくなったときがあった。
するとそれをどこからか聞いてきた、息子の友達の両親がお金を貸してくれると言ってくれた。
彼らとはそれほど近かったわけではない。けれど、息子の小学校の行事や、資金集めのイベントで手伝ううち、私たちを信頼してくれるようになったらしい。

小さな歩みを進めながら、2年後にやっとオープンしたときには
「諦めないで続けていれば、いつか、できるものなんだね」
という褒め言葉とも取れない賛辞を沢山の人に頂いた。

この道のりを時々手伝ってくれていた友人の一人も 私たちのオープンで元気を得て彼のビジネスを立ち上げた。

ゆっくり進むのも悪くない。

お金、労力、情報、支援の気持ち、人々がそれら自分にできる様々なものを運んできてくれて、 何かを作り上げたあとには、友情や信頼がすでに根を下していた。
ゆっくり進むことで見えた優しい風景がたくさんあった。
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その後、店が順調に進んでいったのも、この地域の中ですでに、人々とのそんな関係が築かれていたことも大きい。

私たちもいつか、夢を追いかける人の 支援のひとつの手になろう、これまでしてもらった以上のことを返していけるよう、成長しよう、そんな堅い決心も、ゆっくり進んできたからこそ、だったかもしれない。
# by S_Nalco | 2010-08-06 17:46 | はじまり